弘安のはじめごろの身延の草庵には、「人はなき時は四十人ある時は六十人」(兵衛志殿御返事、御書1099ページ)、「今年一百よ人の人を山中にやしなひ」(曾谷殿御返事、1065ページ)とあるように、常時、四、五十人から百人もの門下が各地から集まって、大聖人の指導を仰ぎ、仏法の研さんに励んでいたのです。

 また、身延へ入山後に認められた御書は三百通を超え、各地の門下に対して仏法の法理を教え、適切な信心の指導をされて、人材を育て、教団の確立をはかられています。さらに、房総地方には日向、鎌倉方面には日昭・日朗、駿河・甲斐方面には日興上人を中心者として配置され、折伏・弘教をすすめられました。
 とくに日興上人の活躍は目覚ましく、駿河国と甲斐国にわたる富士山麓の地で、多くの僧俗を改宗させ、正法信仰の火を燃え上がらせています。駿河国富士郡熱原郷(現在の静岡県富士宮市)の滝泉寺の僧の中で大聖人の門下になる者が出て、その折伏によって多数の信徒が改宗したことから、院主代の行智らが大聖人の門下に対して迫害を始めました。

 弘安二年(1279年)九月二十一日、日興上人の弟子の日秀の所有する田の稲刈りが行われ、その手伝いに集まった熱原の農民信徒を、武装した多くの武士が逮捕に向い、暴行を加えて二十人を捕えました。
 行智らの策謀で、捕らえた二十人に、滝泉寺の他の稲を刈り取って盗んだという無実の罪をきせて鎌倉へ連行し、侍所の所司(次官)の平左衛門尉が取り調べに当たりました。
 平左衛門尉は、稲を盗んだ事件については全くふれず、法華経の信仰を捨てて念仏を唱えれば許してやると、拷問までして強く責めましたが、誰一人退転するものはいませんでした。そのため、中心者の神四郎・弥五郎・弥六郎の三人の首を切り、残りの十七人を追放しています。
 この熱原法難は、庶民の信仰に対する権力による弾圧で下が、正法にめざめた民衆が、権力に負けることなく、堂々と信仰を貫き通した稀有の事件でした。

 日蓮大聖人は、この法難を通して、民衆の間に正法を持ち続けていく強い信仰が根付いたことを感じられ、弘安二年十月十二日、末法万年にわたって全人類が根本として信仰すべき南無妙法蓮華経の大法を「一閻浮提総与の大御本尊(全人類に与えた根本の本尊の意)」として建立されました。そして、「予(私)は、立宗以来、二十七年にして、「出世の本懐」を遂げた(この世に出現した目的を達成した)」と明確に宣言されています。(聖人御難事、御書1189ページ)
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