辧殿尼御前御書に出てくる、「法華経の行者」とは、言うまでもなく、日蓮大聖人のことです。
 「第六天の魔王」とは、実際には特定の存在を指しているわけではなく、生命の働きを指しています。この魔王は、別名を「他化自在天」といって、その特徴は、人を意のままに動かすことに喜びを覚える命です。この喜びはすごく大きい、だから、人を無理やりにでも従わせ、支配しようとします。結果として、一人ひとりの可能性を踏みにじり、閉ざしていくのです。だから「悪」なのです。

 これに対して、「法華経の行者」は、一人ひとりの可能性を開いていきます。生き生きと立ち上がらせ、共に幸福へと向かう連帯を広げようとします。だから「善」となります。

 これは、第六天の魔王から見れば、一番許せない相手になります。だから必ず妨害してきます。
 しかし、法華経の行者は、そんな相手に対しても、どこまでも対話を武器に、相手の生命そのものを変えようと働きかけていくのです。
 単純な対立ではなく、相手の生命を変える「いくさ」なのです。

 ”自身の中に幸福になる力があると信じられない”、という不信と迷いから、第六天の魔王の働きが現れてきます。つまり、可能性を自らも閉ざしているということになります。

 自他の閉ざされた命の可能性を開く、人間の底力を引き出していくのが、法華経の行者です。
 生命に具わる限りない可能性を開くのは、妙法への「信」しかありません。大聖人は、人に会い、語り、この「信」を広げ抜かれました。さらに、第六天の魔王と二十年以上も戦い抜かれてきました。それは、命に及ぶ迫害にも、一歩も退くことなくです!

 法華経は、すべての人間に具わる無限の可能性を説きます。大聖人は、人間を信じられていました。
 「日蓮一度もしりぞく心なし」との仰せは、何があろうと、相手の可能性を信じ抜き、人と関わり、立ち上がらせてゆく、大聖人の「闘争宣言」でもあります。
 この戦いに連なっているのが、創価の三代会長であり、また私たち創価学会員です。

 池田先生は、こう言われています。
 「どんな機会も逃さず、私は人と会ってきた。世界中、どの地でも、時間の許す限り『会う』ことで学会の味方を増やした。『会う』ことで学会を強くしてきた。『もう、会う人がいない』というくらい、会って会って会いまくる。ここに学会の強さがあるのだ」と。

 私たちは、積極的に人と関わり、幸せになる力を信じるがゆえに、相手のために、「できる!」「変われる!」と語り、励ましゆくことで、力強く立ち上がる人を広げています。それには勇気が必要です。だから唱題に励む。その中で、自身の可能性も開いていくことができます。
 こうした私たちの日々の行動が、どれほど偉大な戦いか。人々の力が弱められ、諦めが蔓延していく社会を、根底から変革をしているのです。
アルバート通り