文永十一年(1274年)になると、二つの太陽が現れるなどの天変が続き、蒙古軍襲来の気配が強くなりました。
 そうしたなかで、執権の時宗は二月十四日、幕府内で反対する者が多かったのを押し切って、大聖人の赦免を決定しています。
 鎌倉へ帰った大聖人は、四月八日、幕府へ出向き、平左衛門尉らに対面して、諸宗の教義に対する質問などに答えた後、蒙古がいつ襲来するだろうか、という問いには「今年は一定なり」(種種御振舞御書、御書921ページ)と断言されています。
 大聖人は、「日蓮以外には日本国を助けるものは一人もいない。今こそ諸宗への帰依をやめよ」と強く諫めましたが、幕府側は諸宗とともに国家安泰の祈祷をしてほしい、と申し出ました。坊を寄進するともいったようですが、大聖人は拒絶されました。
 大聖人は、幕府を三度諫めてきましたが、三度諌めても用いられなければ国を去る、との故事によって、立正安国を実現する機会が去ったため、鎌倉を去る決意をされました。そして、五月十二日に鎌倉を出発し、日興上人がすすめた甲斐の国の身延(現在の山梨県身延町)の地へ向い、十七日に到着されて、地頭の波木井実長の邸へ入り、六月十七日には身延の山中に建てられた庵室へ移られています。庵室とは、一部屋だけの粗末な僧の住まいをいいました。

 日蓮大聖人が身延に入られてから四ヶ月後に、大聖人が予言された通りに蒙古軍が襲来しましたが、風浪のために蒙古軍が撤退したので、亡国の憂き目を見ることはまぬがれました。

 大聖人は、身延の暗室の位置について、「此の山の体たらくは西は七面の山・東は天子のたけ(嶽)北は身延の山・南は鷹取の山・四つの山高きこと天に付き・・・中に四つの河あり所謂・富士河・早河・大白河・身延河なり、其の中に一町ばかり間(はざま)の候に庵室を結びて候」(種種御振舞御書、御書925ページ)と述べています。
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