文永九年一月十六日、佐渡・越後・越中・出羽・奥州・信濃など、北陸・信越地方一帯の諸宗の僧が数百人も集まり、塚原の三昧堂の前庭で、本間六郎左衛門尉立会いの下で、日蓮大聖人との公開の法論が行われました。

 佐渡の諸宗の僧が、大聖人の処刑を要求したのに対して、佐渡の守護代の本間六郎左衛門尉が、法門で責めるように提案したことから行われた問答でした。
 諸宗を代表する僧の質問に対して、大聖人は一言か二言で打ち破り、「利剣をもて・うり(瓜)をきり大風の草をなびかすが如し」(種種御振舞御書、御書918ページ)という状態で、諸宗の僧等はまったく大聖人に刃がたたず、一方的に大聖人が勝利を収められ、正義を宣揚されたのです。
 この法論の後で、大聖人は本間六郎左衛門尉を呼び止められ、「今、軍(いくさ)が始まろうとしているのだから、急いで鎌倉へ上って、功を立てるべきではないか」と話されています。

 それは、文永九年(1272年)二月一日、北条教時(のりとき)・仙波盛直らの鎌倉の邸が、北条時宗に命じられた討っ手の軍勢によって攻められ、滅ぼされています。執権時宗の異母兄・時輔(当時は京都の南六波羅探題)が、時宗を倒して執権の地位を奪おうとした陰謀が発覚して、その一味として殺されたのです。
 さらに、二月十五日には、京都の北条時輔邸が、鎌倉の時宗の命を受けた幕府軍に攻められ、時輔が殺されています。(二月騒動)

 大聖人を佐渡へ流罪してから、わずかに三か月余りで、幕府権力を争って兄弟が殺し合うという醜い内乱が起こり、大聖人が予言し警告されていた「自界叛逆難」が現実になったのです。

 佐渡では、塚原問答の圧倒的な勝利によって、大聖人の偉大さと正義が知れ渡り、入信して門下となる者も増えていきました。また、紙や筆の乏しい中で、開目抄(大聖人こそ末法の仏であると明かされた人本尊開顕の書)や観心本尊抄(末法の本尊を明かされた法本尊開顕の書)などの重要な著作を顕わして、後世のために残され、また門下を指導されています。

 佐渡では新しく大聖人の門下になる者が後を絶たなかったため、諸宗の僧等は檀家や信者を失い、あわてて佐渡の守護・北条宣時に讒言して、偽の御教書(幕府の命令書)を二度も出させ、大聖人と門下を迫害したのです。
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