佐渡に入られた大聖人は、「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたま(板間)あはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしき(敷)がは打ちしき蓑(みの)うちきて夜をあかし日をくらす」(種種御振舞御書、御書916ページ)と述べられています。

 また、「里より遙かにへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり、彼処に一間四面の堂あり、そらはいたまあわず四壁はやぶれたり・雨はそとの如し雪は内に積もる、仏はおはせず筵畳(むしろたたみ)は一枚もなし」(妙法比丘尼御返事、御書1413ページ)とも述べられています。
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 「塚原」とは塚(土葬した墓)のある原という意味で「三昧所」とは墓地のことをいいました。墓地の中にある一間四面(四本の柱の建物の意で、現在の一坪ではない)の小さな堂は、死者を供養するための法華三昧堂だったようですが、安置されていた仏像も無くなり、屋根は破れ、壁も落ちて、筵や畳もないという荒廃ぶりでした。

 塚原が、現在のどこの地にあたるのか、諸説があって確定はできませんが、佐渡の守護代の本間六郎左衛門の後ろにあったということから、当時の国府の近くにあったことは間違いありません。当時の国府の位置が不明確なため、塚原の位置も明確にできないようです。

 日蓮大聖人と、常随給仕されていた日興上人は、雪が吹き込む破れ堂の中で、敷き皮を敷き、蓑を着て寒さを防ぎ、佐渡の冬を越されたのです。その時、深夜に温かい食べ物などを入れた櫃(ひつ)を背負って御供養する、阿仏房夫妻の外護の姿が見られました。
 そして、文永九年一月十六日に行われ、大聖人が諸宗の僧、数百人を相手に法論されて打ち破られた「塚原問答」の勝利によって、仏法の正義が明らかになっています。

 その後、同年四月に、大聖人は、塚原から雑太郡(さいたぐん)石田郷の一谷(いちのさわ)(現在の新潟県佐渡郡佐和田町市野沢)の一谷入道の邸へ移っています。塚原から一谷へ移されたことは、大聖人に対する待遇が良くなったことを意味していました。

 流人である日蓮大聖人を預かった一谷入道は、自分の領地を持つ名主クラスの土豪で、国府に関係のある下級の官人だったともいわれています。入道は、阿弥陀堂を建てるほどの熱心な念仏信者だったようですが、しだいに大聖人に感化され、食事を供養するなどして、やがて母とともに大聖人に帰依しています。
 大聖人は、一谷入道が亡くなった後に、「入道の堂のろうにていのちをたびたびたすけられたりし事こそ・いかに・すべしとも・をぼへ候はね」(千日尼御前御返事、御書1315ページ)と述べています。

 この御文から、大聖人は、入道の邸の中の堂(持仏堂か)に住まわれ、堂と入道たちの住む母屋の間は廊(建物と建物を結ぶ渡り廊下)でつながっていたことがわかります。一谷入道は、その廊で、堂から出られた大聖人の命を狙って襲ってきた暗殺者たちから、大聖人を度々お救いしていたのです。

 大聖人にお会いするため、鎌倉から求道の旅を重ねてきた四条金吾や日妙聖人が訪れたのも、一谷入道の邸でした。また、日興上人のほかにも、弟子たちが何人も滞在するようになっていきました。
 そして、文永十一年(1274年)二月に幕府から流罪を赦免された大聖人は、三月十三日に一谷入道邸を発って、三月二十六日に鎌倉へ帰り着かれています。