いよいよ処刑の時が来た、という瞬間に、江の島の方角から光り物(隕石が燃えながら飛ぶ飛球)が光渡ったため、太刀取りの武士が驚き恐れてしまい、大聖人を処刑することができませんでした(竜の口法難)。

 この瞬間に、日蓮大聖人は、名字凡夫の命を捨てられて、久遠元初の自受用身、すなわち末法の御本仏の境界を顕わされたのです。それを発迹顕本といいます。
発迹顕本とは、仮の姿を開いて本来の境地を顕すことをいいます。

 そのことを、翌年二月に著された開目抄で、
 「日蓮といゐし者は去年(こぞのとし)九月十二日子丑の時に頸はねられぬ(凡夫の生命を終わったという意)此れは魂魄(末法の御本仏としての生命の意)佐渡の国にいたり」(御書223ページ)と述べています。
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 処刑に失敗した幕府は、一時、大聖人を相模国の依智(現在の神奈川県厚木市)にあった本間六郎左衛門の邸に預けました。そして、大聖人をどう処置するかが評議され、三十日余りも結論が出ませんでした。
 その間に、鎌倉で放火や殺人事件が相次いで起り、日蓮の弟子たちの仕業であると讒言されました。それは、あくまでも大聖人を処刑させようとした念仏者や律宗の者たちの卑劣な策謀だったのです。

 そのため、世論は悪化し、大聖人は佐渡へ流罪と決まり、多くの門下がさまざまな迫害や弾圧にあいました。
 十月十日、大聖人は佐渡へ向って依智を出発し、越後の寺泊(現在の新潟県寺泊町)から船に乗り、十月二十八日に佐渡へ着き、十一月一日に配所の塚原の三昧堂に入れられています。

 なぜ日蓮大聖人は、当時の政治権力である幕府から、このように激しく迫害されなければならなかったのでしょうか。
 池田名誉会長は、かつてこのように話しています。
 「本来、政治というものは、すべてを体制内に収容して、系列下に置きたい。すなわち、広い意味で組織的共存関係を結ばせることを目指すものであります。そのため、革命的な運動をすべて嫌い、体制外存在に対しては極度に敏感に、否定的に反応するのであります。
 しかも、当時はいまの民主主義社会と違って、(幕府は)執権中心の法治協議制はいえ、独裁的軍事政権であるため、こういう体制の外に立つ批判勢力が自立しうることは、原理的には不可能なことと言わざるを得ません。
 しかるに、大聖人が目指されたところは、単に当時のためというより、未来永遠のためであり、単に日本のためというよりは三国(インド・中国・日本)および一閻浮提(全世界)の名で示されていたとおり、世界のためであり、また政治に対する運動の上では、体制を超越して、社会からの思想的、哲学的指導性の要請に応じる立場をとられた、ということであります。
 この立場は、幕府に対しては立正安国への積極的協調はするが、体制内に入って従属することは不可能だという立場であり、これは幕府の運動と方向、向きは逆であり、相剋(対立)するのであります。ここに(法華経の)宝塔品の六難九易(仏滅後に法華経を受持することの難しさを六つの難しいことと九つの易しいことを対比して示したもの、ここでは権力による迫害を指す)発生の社会的客観性が存在するのであります」


 そのように、幕府の目指すものと、日蓮大聖人の目指されたものとの違いから、権力に従属しない大聖人に対して、幕府の迫害がなされたのです。この原理は、現在にもそのまま当てはまります。