妙法の祈りは、どんな苦悩の境界であろうと、
歓喜と幸福へと転じていく大生命力を奮い起こします。

聖愚問答抄(御書498ページ)には、
 されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰(ここ)に集まる時我が身の法性の法報応(ほっぽうおう)の三身(さんじん)ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり、例せば籠の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥(しゅちょう)の同時に集まる是を見て籠の内の鳥も出でんとするが如し
(現代語訳)
(すべての人が備えている仏性を妙法蓮華経と名づけるので)一遍でもこの妙法蓮華経を唱えるならば、すべての人の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、自身の仏性の法報応の三身ともに引かれて顕れ出る。これを成仏というのである。例えば、籠の中にいる鳥が鳴く時、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まる。これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。

 南無妙法蓮華経は、この宇宙の、あらゆる衆生の生命にそなわる「仏性」、すなわち尊極の仏の境界の名前です。
 私たちが、南無軽報蓮華経を唱える時、その声は宇宙に響き渡って、あらゆる衆生の生命の奥底にそなわる「仏性」を呼び覚まします。その「仏性」に呼応して、私たちの生命にそなわる「仏性」も赫々と現れ出てくるのです。
 すなわち、成仏という、人間として最高の歓喜と幸福の境界が実現するのです。
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 大聖人は、この原理の譬えとして、籠の中の鳥が鳴けば、空を飛ぶ鳥が集まってきて、籠の中の鳥も、それに応じて外に出ようとするようなものであると述べられます。
 籠の中の鳥とは、苦悩にとらわれた私たちの境涯であり、その鳥が鳴くのは私たちが唱題すること、空を飛ぶ鳥が集まってくるのは、あらゆる衆生の仏性が呼び覚まされること、籠の鳥が外に出ようとするのは、私たちの仏界が現れ出ることを指します。

 これを現実の生活に約して考えれば、私たちは周囲の人々との関わりの中で、様々な苦悩を感じます。しかし、妙法の懸命な祈りは、人々の生命に響いて、その人々の仏性を呼び起こします。その結果、苦悩のみをもたらすと感じられた人々との関わりは、互いに生命を触発しあい、自他ともの成長を促すダイナミックな関係性へと転換していくのです。

 日蓮大聖人の対話の闘争

「問うて云く」「答えて云く」「難じて云く」「破して云く」・・・
日蓮大聖人の御書には、こうした問答のやりとりが多く出てきます。

 大聖人は、問答体という文章の形式を、とても多く用いられています。「立正安国論」が、大聖人を想定した主人と、当時の実質的な最高権力者である北条時頼を想定した客人との対話であることは、よく知られています。

「観心本尊抄」「撰時抄」「報恩抄」などの重書も、問答体で綴られています。「開目抄」も、「大聖人が真実の法華経の行者であるか否か」という「世間の疑い」「自身の疑い」に答える問答の形式を取られています。
「愚人」が「聖人」から折伏されて「この信心を貫いて決して退転しません」と決意する「聖愚問答抄」も、典型的な問答体の一つです。
 つまり、大聖人の主要な著作のほとんどは、何らかの相手を想定した問答になっているのです。

 もちろん、日本の仏教史において、問答体の文章は、かなり多く見受けられます。それは、仏教の法論の伝統に由来すると考えられます。
 例えば伝教大師は、生涯にわたって言論の死闘を繰り広げた人ですから、その著作も激しい調子の問答体で記されています。

 大聖人が他と異なるのは、その量の多さもさることながら、問答の相手に、実に多種多様な人々が想定されていることです。
 北条時頼のような政治権力者から、良観のような仏教界の権威者、大聖人に批判的な世間の人々、また大聖人に従ったゆえに難を受けて苦しんでいる門下まで、本当に様々なのです。
 これは、大聖人が、著述の世界のみならず、実人生において、多種多様な立場の人たちと対話を重ねていたことの反映と考えられます。事実、大聖人は、北条時頼にも実際に対面していますし、無名の庶民たちとも心通う対話を広げられています。
 身分の上下や立場の違いにもかかわらず、誰とでも分け隔てなく対話するというのは、なかなかできることではありません。なぜ大聖人は、このような対話ができたのでしょう。それは、大聖人が、誰に対しても、同じ一個の人間として向き合っていたからだと考えられます。

 大聖人は、権力や立場によって「偉い」とされる人たちのことを、少しも「偉い」とは考えていませんでした。その徹底した態度は驚くばかりです。
 竜の口の法難の前に、強大な権力をほしいままにした平左衛門尉が、数百人の兵を引連れて乗り込んできた際には、こう大声で叫ばれています。
「おお、面白いではないか。平左衛門尉の狂った姿を見よ。日本国の柱を倒そうとしているのだ」(御書912ページ)。
 この大確信に、かえって兵たちのほうが怯んでしまったのです。

 一対一の人間として直に向き合った時には、権力の有無など関係ありません。佐渡流罪後、再び平左衛門尉と対面した際には、こう述べられています。
「王の権力が支配する地に生まれたのだから、身は従えられているようであるが、心は従えられないのだ」(御書287ページ)。
 平左衛門尉は、この言葉に何も言い返せなかったに違いありません。

 諸宗の僧らの態度は、大聖人とは全く正反対で、権力に媚びへつらうばかりでした。「今の諸宗の僧どもは畜生のようである。智者が弱い立場にあるのを侮り、邪(よこしま)な王法を恐れている。媚びへつらう臣下とは、こういう者たちをいうのだ」(御書957ページ)。

「仏法は勝負」です。大聖人が生涯、諸宗の僧らに呼びかけられたのが、公場の問答で、仏法の正邪を決することでした。
 弘安元年(1278年)、身延におられた大聖人のもとに、公場の法論が行われる動きがあるという急の便りが届きます。その時、大聖人はご高齢になって、体も害されていたにもかかわらず、こう喜ばれています。
「一生の間、願ってきたことが、成就するであろう。謗法の者どもを召し合わせ、仏法の法門の是非が決せられるならば、日本国は一同に日蓮の弟子となるだろう。全世界の人々が、この法門を仰ぐだろう。うれしいことではないか。うれしいことではないか」(御書1284ページ)。

 あらゆる人間に対して対話を呼びかけてやまなかった大聖人の御生涯にこそ、真の人間主義の精神が輝いているのではないでしょうか。