文永八年(1271年)九月十日、大聖人は幕府へ呼び出され、北条得宗家の執事(家令)で、侍所の所司(次官)の平左衛門尉頼綱に尋問されました。
大聖人は、最明寺殿と極楽寺殿を地獄に堕ちたということはつくりごとであると否定され、真に国の安穏を願うなら良観らと公場で対決させるべきであり、日蓮を理不尽に罪におとし、流罪・死罪にした後に百日・一年・三年・七年の内に自界叛逆難と他国侵逼難が起こるだろうと、平左衛門尉を強く諫めたのです。平左衛門尉は、それに反発し、不快の念を強く抱きました。

さらに大聖人は、九月十二日、平左衛門尉に対して、立正安国論を添えて書状を送り、重ねて誤った仏教各派への帰依の停止を訴えました。しかし、平左衛門尉は怒りの極に達して、大聖人の逮捕・処刑を決意したのです。そして自ら数百人の武装した武士を指揮して、名越・松葉ケ谷の草庵へ大聖人の逮捕に向かいました。

武士たちは、法華経を草庵中にまき散らし、平左衛門尉の郎党(家来)の少輔房は、法華経の第五の巻(巻物)で大聖人のお顔を打つという暴行を働いています。
その時の様子は、「平左衛門尉が一の郎従・少輔房と申す者はしりよりて日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出しておもて(面)を三度さいなみて(呵責)・さんざんとうちちらす、又九巻の法華経を兵者ども打ちちらして・あるいは足にふみ・あるいは身にまとひ・あるいはいたじき(板敷)・たたみ等・家の二三間にちらさぬ所もなし」(種種御振舞御書、御書912ページ)と述べられています。

大聖人は少しも恐れず、かえって「なんの罪もない日蓮を処刑することは、日本の国を滅ぼすことではないか」と大音声で平左衛門尉を叱っています。
その毅然たる姿に臆した武士たちを、平左衛門尉が励まして大聖人を捕えさせ、謀反人のように鎌倉市中をひきまわしたうえで、侍所へ連行し、北条武蔵守宣時の邸に預けました。

その夜更けに、大聖人は宣時邸から引き出され、厳重な警戒の中を、鎌倉郊外の竜の口の刑場へ連行されました。表向きは佐渡流罪としながら、ひそかに処刑してしまおうという平左衛門尉らの策謀だったのです。
竜の口