文永八年の夏の鎌倉は、ひどい干ばつに見舞われていました。
そのため、幕府は極楽寺の良観(忍性、真言律宗の僧)に雨乞いの祈祷を命じています。
日蓮大聖人は、良観のもとへ使者を送り、
「七日の内に(雨を)ふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げ(気)なるが大誑惑なるは顕然なるべし・・・是を以て勝負とせむ」(頼基陳状、御書1157ページ)と伝えて、祈雨の勝負を挑まれたのです。
雨
良観は六月十八日から弟子二百五十余人とともに、必死で祈りましたが、一滴の雨も降らないばかりか、干ばつはいよいよ盛んになり、暴風が吹き荒れたのです。
大聖人は使いをやり、「一丈の堀を超へざる者二丈三丈の堀を越えてんやや(易)すき雨をだに・ふらし給はず況やかた(難)き往生成仏をや、然れば今よりは日蓮・怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ」(頼基陳状、御書1158ページ)と責め、良観に改心をすすめました。

良観はそれでも諦めずに七日の猶予を願い、十四日間の間祈っても、ついに一滴の雨も降りませんでした。良観は祈雨の勝負に負けたら、大聖人の門下になるという約束を破ったばかりか、大聖人を怨み、憎んで、大聖人を迫害する卑劣な策謀をめぐらしたのです。

そして、浄光明寺の行敏をそそのかして、大聖人に対決を申し込ませ、大聖人に個人間の問答ではなく、公の場で対決しようと回答されると、良観らは大聖人を非難中傷して、幕府へ召還して正邪を決するよう、訴状を問注所に提出しました。

問注所がその訴状に対する陳状(答弁書)の提出を求めると、大聖人は訴状の誤りに反論され、公場での対決を主張されました。
公場対決では勝ち目がないため、良観らは幕府の有力者や北条一門の夫人や未亡人たちへ、大聖人を讒言(ざんげん)したのです。

それは、「さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す」(種種御振舞御書、御書911ページ)
「極楽寺の生仏の良観聖人折紙(訴状)をささげて上へ訴へ建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく諸の五百戒の尼御前等ははくをつかひてでんそう(伝奏)をなす」(妙法比丘尼御返事、御書1416ページ)と指摘されている通りでした。

良観らは、「日蓮は、最明寺入道(時頼)殿や極楽寺(重時)殿が地獄に堕ちたといい、建長寺・極楽寺・大仏殿などの寺寺を焼き払えと主張し、道隆や良観の首を切れと悪口している」と讒言(ざんげん)して、大聖人を処刑するように訴えたのです。
それを聞いた幕府の有力者や北条一門の夫人たちは、「日蓮は日本国と北条一門を滅ぼそうとする悪僧である」と信じ込み、大聖人を断罪するように働きかけたのです。