文永五年の閏正月十八日に、蒙古のフビライ・ハンからの諜状が鎌倉に着いたときから、日本国中が恐怖と混乱の渦中に投げ込まれたといえます。
大聖人の予言が的中したにもかかわらず、幕府からはなんの音沙汰もないばかりか、国中の神社・仏閣に対して蒙古調伏の祈祷を命じています。
そのため大聖人は、幕府の中枢と関係があったと思われる法鑒房(ほうかんぼう)《平左衛門尉頼綱の父、平左衛門尉盛時入道と思われる》に対して、書状を送られました。
その中で、立正安国論を著した理由と大意を述べ、予言の的中を指摘して、諸宗による祈祷の危険性を警告され、幕府の反省を促したのです。
それにも反応がなかったため、八月二十一日、安国論を取り次いだ宿屋左衛門入道光則に書状を送って、安国論の予言の的中を指摘され、北条時宗のこのことを知らせるように託されています。
それでも反応がなかったため、十月十一日、十一通の書状をしたためて、執権・北条時宗、平左衛門尉頼綱、宿屋光則、北条弥源太、建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺の各所に送られました【十一通御書】。

その内容は、幕府が諸宗への帰依をやめて日蓮に帰依すべきであり、そのためには幕府と諸宗は評議をして、法の正邪を公の場で対決して明らかにすべきであると、強く主張されたものでした。
しかし、幕府や諸宗側の反応は、「或は使を悪口し或はあざむき或はとりも入れず或は返事もなし或は返事をなせども上へも申さずこれひとへにただ事にはあらず」(種種御振舞御書、御書909ページ)というありさまでした。
結局、幕府は、大聖人の諌めに耳をかさず、何の動きもみせなかったのです。
モンゴル