日本に武士の時代が来たのと同時に、未曽有の大事件が起こっています。
それは、2回にわたる蒙古軍の来襲でした。
文永十一年(1274年)十月の「文永の役」と弘安四年(1281年)五月の「弘安の役」は、日本が有史以来、初めて経験した、「外国の軍隊の侵攻」という未曽有の国難だったのです。

それは、日蓮大聖人がすでに立正安国論で予言し、幕府に警告していた「他国侵逼難(たこくしんぴつなん)」が、現実になった姿でした。
蒙古軍
中国では、十世紀のはじめに唐の大帝国が衰え、十世紀の末に宋が中国を統一しましたが、十二世紀に入ると女真族が金の国を建設し、宋を圧迫して屈服させていきました。

十二世紀の末に、蒙古の遊牧民のモンゴル族を、テムジンが統一して「チンギス・ハン(強力な大王の意)」の称号を受け、独立国家を建設したのが、モンゴル帝国の誕生でした。
日本では建永元年(1206年)にあたり、北条義時が執権の時代です。

チンギス・ハンは、無敵の騎馬軍団を組織して、周囲の国々を攻略し、国を滅ぼすこと四十、二十年の間に東は満洲から西は中央アジア、南部ロシアにわたる広大な地域を領土にしていきました。
チンギス・ハンの死後も、モンゴル軍の遠征は続き、金を滅ぼし、朝鮮半島へ侵攻して高麗を属国とし、西はロシア・ハンガリー・ポーランドにまで侵攻しています。
その後、広大なモンゴル帝国は五つの独立国に分裂します。
チンギス・ハンの孫のフビライ・ハンは、モンゴル国王として即位すると、都を燕京(北京)へ移し、宋を滅ぼして中国全土を手中にすると、国号を「元」と定め、自ら「世祖」と名のっています。
その領土は、蒙古・満州・チベット・中国全土に及んでいました。

フビライ・ハンが即位した1260年は、日本では文応元年にあたり、日蓮大聖人はその年の七月十六日に「立正安国論」を、北条時頼に提出しているのです。
他国侵逼難を予言した警世の書が、後に日本侵攻をくわだてたフビライ・ハンが即位した年に公にされているということは、生命の本質から時代・社会の行く手を洞察されていた日蓮大聖人の偉大さを示していました。

  属国となって朝貢しなければ征服すると威嚇

世祖フビライは、東アジア全土を制圧するために、東海上の小国である日本を屈服させるべきだと考え、文永三年(1266年)十一月に高麗へ使者を送り、日本を朝貢国(ちょうこうこく)《属国が貢物をもって宗主国の国王に面会すること》にするための勧告と道案内をするよう命じました。
高麗の使者は、巨済島まで来て、海峡の風波が激しいことを口実に引き返しています。

翌年九月末に、高麗は再びモンゴルからの国書と高麗の国書を持った藩卓(はんぷ)を日本に使いさせました。
藩卓は十一月に対馬へ着いて越年し、翌年(文永五年)正月に九州の太宰府に着いています。
鎮西奉行の小弐武藤資能(しょうにむとうすけよし)国書の写しを鎌倉へ送り、幕府は朝廷に奏上しています。
朝廷では、連日の会議の結果、返諜に及ばずという結論に達しました。モンゴルの要求を無視せよ、ということです。そのため、高麗の使者はむなしく帰国しています。

当時の幕府も、朝廷も、国際情勢には全く無知で、「蒙古」という言葉が、この時初めて使われています。また、蒙古の国書の写しが東大寺に現存していますが、その奥書には「当世天下無双の大事件」と記されているそうです。
蒙古の国書の内容は、「大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず」「今より以後、好をむすび、互いに親睦しよう。そうでなければ、兵を用いることになる。それは互いに好むところではないであろう」(趣意)というもので、属国となって朝貢しなければ兵を派遣して征服するぞ、という強い威嚇を含んでいたのです。
日本が何の回答も与えなかったのは、要求を拒否したことになり、蒙古軍の侵攻を覚悟しなければならなくなったのです。
この時に幕府の執権だった北条政村は連署に退き、十八歳の時宗が執権となり、蒙古に対する外交はますます強硬なものになっていきました。